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生化夜話 第2回:論文なんて後付けの合理化です - ティセリウスの電気泳動

電気泳動発達前史

ガラス管をグサっと~ごく初期の電気泳動

電気泳動の歴史は意外に古く、19世紀初頭まで溯ることができます。後に電気泳動法確立のキーパーソンとなるティセリウスの1930年の学位論文によると、最初の電気泳動実験は1807年にロシアのロイスによって行われたそうです。

19世紀初頭と言えば、ようやくタンパク質の研究が始まったばかり、さまざまな抽出液をとにかく煮るという何とも手荒な手法を用いて、熱変性で凝固したタンパク質を見つけて喜んでいたような時代です。ロイスの電気泳動実験は、当然のことながら試料はタンパク質溶液などではなく、粘土でした。湿った粘土に水を満たした2本のガラス管を刺して電流を流したところ、陽極側では粘土の粒子によって水が濁り、陰極側では濁ることはなかったが体積が増大したことを記録しています。

余談になりますが、ロイスの名前については、フェルディナント・フリードリヒ・ロイスとしている資料と、アレクサンドル・ロイスとしている資料の両方があるようです。また年代についても、本稿ではティセリウスの記載に従って1807年と書きましたが、1809年としている資料もあります。年代について後者が正しいのであれば、来年(2009年)は「電気泳動二百周年」にあたることになります。(もし、ロイスの書いた論文をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ著者名と年代がどうなっているのかをご一報ください。また姓の読みに関しても謎です。)

ロイスの実験以降、電気分解や電磁誘導で有名なファラデーや1847年からドイツ物理学会長を務めたデュ・ボア=レイモンなど、多くの研究者が電気泳動の研究を行っていますが、電気泳動という現象の性質を明らかにするまでには至りませんでした。

電気泳動の理解という点で少し進展があったのは1861年で、クインケの実験から移動度は電位の勾配に比例するらしいことがわかりました。ただし、クインケ本人は論文の中で移動度と電位の勾配の関係については考察しておらず、他の研究者たちがクインケの報告を見てその関係を理解した、ということのようです。

では、最初のタンパク質の電気泳動はいつかというと、1892年のピクトンとリンダーの実験です。彼らは1892年の論文でヘモグロビンを泳動した結果を報告しているそうです。ただし、さまざまなコロイドをとにかく電気泳動してみた、という内容らしいので、特にタンパク質に注目して何かを調べようとしたわけではなさそうです。

その後、ハーディーがU字管を使った電気泳動を行いました。ハーディーは目的のコロイドを含む溶液と別の溶液を使ってU字管の中で層を形成し、電圧をかけることで層の境界がどのように移動するかを観察しました。ハーディーの研究は、電気泳動の結果を定量した点で、それまでの「電圧をかけたら○○は×極側に移動した」ことを記載するだけの研究とは一線を画すものでした。この手法は移動境界法(Moving boundary method)と呼ばれ、後述するティセリウスも、タンパク質の電気泳動の研究で、この方法の改良に取組むことになります。

北欧最古の大学

さて、ロイスの最初の電気泳動実験から溯ること330年(1477年)、場所はスウェーデンのウプサラ。スウェーデン国王の戴冠式が行われるこの町で、北欧で最初の大学が設立されました。もっとも、カトリック教会によって設立された大学は、当初は学生がせいぜい50人と、片手で足りるほどの教授陣によって運営されていました。16世紀にはプロテスタントが権力を握ったためにカトリック教会を母体とした大学の運営が停滞しますが、17世紀に入ると、三十年戦争の活躍で有名なグスタフII世アドルフの支援などもあって息を吹き返しました。

ウプサラ大学の科学者は、起業家精神に富んでおり、17世紀に有名な解剖学教室をウプサラに建てたオロフ・ルドベックは、ウプサラ市の新しい都市計画も立案しました。このように、ウプサラ大学の外部との接点を積極的に持とうとする研究者の姿勢は、20世紀の生化学の発展において大きな意味を持つことになります。

タンパク質の大きさをめぐる議論

はっきりとタンパク質の分子量を求めようという集中した研究は行われていなかったようですが、19世紀の研究の成果から、タンパク質の分子量が相当に大きいということについては、20世紀初頭には研究者の間で一応合意されていたようです。ところが、それでは分子量はどれくらいなのか、という話になると、それぞれの立場によって大きく異なる数字を提唱していました。イギリスのフィッシャーをはじめとする有機化学系の研究者たちは、数千、せいぜい5000~6000と考えていましたが、一方、セーレンセンやアデアなどは彼らの実験結果から数万という数字を示していました。

そんな分子量についての対立に決着をつけたのは、ウプサラ大学のスヴェドベリでした。超遠心装置を使って溶液に含まれるタンパク質の沈降速度を光学的に測定した結果、アデアの主張する(当時の有機化学者にとっては)信じがたいほど大きな値がまさにタンパク質の分子量として妥当であることを示しました。ただ、この時点ではタンパク質が本当に有機化学で扱う分子と同様に共有結合した1つの分子であるのかどうかを確認にする術がなかったため、測定された値を「分子量」と呼んでよいかどうかについて意見が分かれ、最終的には「酸素原子の重さの16分の1」を1単位とし、記号をドルトン(Da)とすることに落ち着きました(論文にMolecular weightという言葉を使い、数値をDaなしで表記していますので、スヴェドベリは「分子」派だったのではないでしょうか)。

スヴェドベリは、自分の超遠心の実験では、さまざまなタンパク質を含む層が大変均一で、隣接する層と明確な境界を作っていたことなどから、あらゆるタンパク質は分子量約17600のサブユニットを基本単位としていると考えていました(もちろんこれは大間違いで、電気泳動などよりタンパク質の分析に適した手法を用いたデータで否定されることになりますが、1930年代にはかなり広く支持されていたようです)。

ティセリウスの電気泳動

ティセリウスは、科学研究も美術や文学と同様にそれを成し遂げた者の人間性が大きく反映される、大変創造的な仕事だと信じていました。そんなティセリウスは、過去の研究者の論文を読むという行為(論文を材料とした「研究の研究」)は、意義のあることではあるけれど、それだけでは十分ではないと考えていたようでした。論文では無駄のない実験結果と考察が展開されますが、1968年の電気泳動に関する総説の中で世の中の研究が本当にそんな流れだったのか、ティセリウスは疑問を呈しています。論文の著者は、最終的な結果にたどり着いたところで論文を書くが、その時初めて本来どういう道筋で物事を進めるべきだったか分かるものであり、実際の研究の過程においては、寄り道や間違い、落胆や希望的観測などがつきものだと書いています。そうした細部を省いて後付けで合理化し、理路整然とした内容に仕立て上げた論文には、特に1950年代以降は後進の指導や研究の運営に大きく時間を割いてきたティセリウスとしてはあまり魅力を感じなかったのでしょう。

そういうティセリウスですので、彼自身の電気泳動の研究については、そうした紆余曲折を自身の手で書き残しています。

学位論文、そして現実逃避

ティセリウスは1925年に上記のスヴェドベリの助手になりました。スヴェドベリの助手ですので、当然、この時期のティセリウスの仕事は超遠心に関するものでした。それからしばらくしてスヴェドベリから与えられたテーマが、移動境界法の改良でした。

もともと移動境界法の改良は、指導教官のスヴェドベリがアメリカのマジソンで同僚のスコットと研究していたテーマでした。超遠心と移動境界法という2つのテーマを持ったスヴェドベリは、超遠心の研究に専念することにして、超遠心よりは技術的な困難が少ないと思われる移動境界法の研究を、若いティセリウスに任せることにしました。当時、移動境界法は超遠心の遠心力を電気に置き換えたものと考えられており、同じことを別の材料でやってみる、いわゆる銅鉄実験に近いものという感覚だったのかもしれません。実際、ティセリウス自身の移動境界法についての印象は、面白そうではあるけれど超遠心ほど抜本的なものではない、というものだったそうです。

それでも、ティセリウスはその当時のウプサラ大学のカリキュラムには入っていない生化学を空き時間を使って勉強し、移動境界法でタンパク質を分析する手法の確立に邁進します。

それまでは無色のタンパク質を扱えなかった問題を、検出系にUVを採用することで解決するなど、移動境界法をタンパク質全般に広く応用するための改良を施し、1930年に"The moving boundary method of studying electrophoresis of proteins"という学位論文にまとめました。ティセリウスはさまざまなタンパク質の電気泳動を行って、超遠心では均一とされているサンプルが、電気泳動の結果からすると均一ではなさそうであることが示唆されるなど、電気泳動を用いたタンパク質研究の可能性を示すことにはなったのですが、残念ながら電気泳動装置の性能は彼が望むほどではありませんでした。当時は20℃で電気泳動を行っており、電気を流したことによる熱対流で層が乱れてしまい、境界がはっきりしなかったのです。

ティセリウスの学位論文はスヴェドベリや大学の教授たちには受けが良く、大学の講師になることはできました。しかし、前述のように自分が行った電気泳動の研究に失望し、タンパク質(中でも特に血清)の電気泳動写真を見ることに苦痛を感じるようになっていました。

そこで、傷心のティセリウスはまったく違う分野である沸石の研究に取組むことにしました。現実逃避も結局研究であるところに、ティセリウスの研究者根性が垣間見えます。フェロー諸島に沸石サンプルの採集旅行に行くなどのびのびと過ごしていたようです。その時期スウェーデンには化学のポジションに空きがなく、ティセリウスはロックフェラー財団の助成金を受けてアメリカに渡りました。アメリカでも相変わらず化学の研究を続けましたが、やがて心の傷も癒されたのか、アメリカのラボで友人たちに励まされたこともあってスウェーデンで電気泳動の研究に再び取組むことにしました。ちなみに、現実逃避であった沸石の研究も、後年、電気泳動とは別の分離精製技術開発のスタート地点となります。

ティセリウス リターンズ

1930年の失敗は熱対流が原因だったので、4℃で泳動する新しい装置を作りました。その新しい装置をすぐに試してみたくなったティセリウスは、その時たまたま冷蔵庫にあった血清を流してみたところ、満足な結果が得られました。喜んだティセリウスは、早速新しい電気泳動装置についての論文をまとめて生化学系の某雑誌に投稿してみたのですが結果はリジェクト。理由は、あまりにも物理しすぎ、ということだったそうです。結局、論文は1937年に電気に関する研究を掲載しているファラデー協会の会誌に掲載されました。

その論文は大反響を呼び、世界中からティセリウスの元に別刷りの送付依頼が山ほど届き、中には電気泳動装置の制作を依頼する大変気の早い注文書まであったそうです。

東京女子医科大学の布村渉様によると、ティセリウス電気泳動装置の国産1号機を組み立てられたのは、当時東大医学部生化学におれられた故平井秀松先生で、第二次世界大戦後の物資のない時代に、たいへんな苦労の末にようやく完成されたそうです。

ランドシュタイナーによる追試(アヒルとニワトリの卵白アルブミンを分離して見せました)やロングワースによる改良(ダイアグラムの自動記録装置の開発と結果の理論的説明)などを経て、ティセリウスの電気泳動装置は研究現場で広く使われるようになり、ティセリウスの装置を基にした電気泳動装置はLKB製のものなどが複数市販されました。ちなみに、LKBには後にスヴェンソン、ハーグルンドなどティセリウスの弟子たちが入社しており、ウプサラ大学とかななり密接に結びついていたことが推測されます。

やがて、ティセリウスが改良した手法を用いて医学研究を行う事例も報告されるようになりますが、それについては、医学研究で使われていた用途であれば、移動境界法よりはむしろ簡単なろ紙電気泳動の方が適していたのではないかとティセリウスは書き残しています。

実は、1930年の学位論文に至る前の1927年に、現在の電気泳動に近いゾーン電気泳動の実験も行っています(当時はゾーン電気泳動という言葉はありませんでしたが)。色素をゼラチンスラブゲルで泳動して分離することに成功していたのですが、タンパク質を生理化学的に分類することに関心があった当時のティセリウスは、単に分画するだけの技術には関心が薄く、また生化学者として組成があいまいなゼラチンなど使いたくなかったこともあって、結局この時は何の論文も書かずに放置してしまいました。後年ティセリウスは、この時の結果を更に追求せずに放置してしまったのは失敗だった、と振り返っています。幅広いタンパク質の研究に応用できるよう改良した移動境界法はその当時としては画期的であり十分な性能を持ってもいたため、生化学研究の進展を大いに促進はしましたが、同時にもっとシンプルな手法の登場を遅らせる副作用もあったように思えます。結局、ティセリウスが上記のゾーン電気泳動の価値を見直して論文を発表するまでに実に二十年以上の月日を要することになりました。

本来であれば、ここでゾーン電気泳動やその後の電気泳動法の発達に移りたいところですが、かなり長文になりましたので、続きはまた次回ということにしたいと思います。最後に、電気泳動からはかなり外れますが、ティセリウスが電気泳動を研究していた頃の逸話で、現代の研究に役立っているものがあるのでご紹介します。

余談:製糖工場の夾雑物が代用血漿に化けました~デキストラン物語

スウェーデンは第二次世界大戦では中立を保っており公式には参戦していませんが、フィンランドに義勇軍を送るなどしており流血と全く無縁でもありませんでした。そんな事情もあり、中立国であるスウェーデンでも軍事関連の研究が進められており、その中でも軍事医学についてのとある依頼が、ティセリウスたちのタンパク質についての経験を見込んでもちかけられました。その依頼というのが、軍事医学で使うための血漿の凍結乾燥でした。

ちょうど同じ頃、製糖会社から全く別の問題の相談も受けていました。ビーツ(サトウダイコンの一種、最近では日本の食品売り場でも見かけることがあります)抽出物に含まれる粘性の夾雑物のせいで精製用のフィルターが詰まってしまうというのです。

調査の結果、夾雑物は混入した細菌がつくったデキストランであることが判明しました。ところが、そのデキストランを更に研究するために、ウサギに注射して抗血清を作らせようとしたのですが、大量に注射しても何も起きなかったのです。ここから研究の趣旨が変わりはじめます。

ティセリウスのグループの若手研究者2名が上記の血漿の凍結乾燥と製糖工場の依頼の両方に当たっていましたが、彼らは製糖工場の依頼から見つかってきたデキストランを代用血漿にすることを思いつきました。当時、代用血漿にはアラビアゴムなどが用いられており、免疫応答を引き起こしたり腎臓や肝臓に溜まってしまったりと、とても安全といえる代物ではありませんでした。

研究の結果、代用血漿として適切な分子量のデキストランが得られ、ウサギ、イヌ、ヒトで問題なく使用できることがわかると、1951年にストックホルムからウプサラに移ってきたばかりのファルマシアが興味を示し、最終的に代用血漿剤Macrodexとして商品化されました。

ティセリウスの回想によると、このMacrodexがウプサラ大学とファルマシアの密接な関係のはじまりだったそうです。

事の発端になった血漿の凍結乾燥の依頼は、Macrodexの登場でめでたく終わりましたが、もう一方の製糖会社はというと、ティセリウスのアドバイスに従って、代用血漿の原料となるデキストランを製造する工場を建設し、ファルマシアに納入するようになったということで、こちらも事業の多角化を果たしてハッピーエンドとなりました。

なお、多くの合併や買収を経て現在ではファルマシアという名前を冠する会社はありませんが、ファルマシアのバイオテクノロジー部門がその源流の一つである弊社は、現在でもデキストランを使ったゲルろ過用製品細胞培養用製品を販売しています。

参考文献

  1. Svedberg T. and Katsurai T, The molecular weights of phycocyan and phycoerythrin from Porphyra tenera and of phycocyan from Aphanizomenon flos aquae, Journal of the American Chemical Society, vol. 51, no. 12, 3573-3583 (1929)
  2. Tiselius A., The moving boundary method of studying electrophoresis of proteins, Nova acta regiae societatis scientiarum Upsaliensis, ser. IV, vol. 7, no. 4 (1930)
  3. Tiselius A., A new apparatus for electrophoretic analysis of colloidal mixtures, Transactions of the Faraday Society, vol. 33, 524-531 (1937)
  4. Tiselius A., Elecrophoresis, past, present and future, Clinica chimica acta, vol. 3, 1-9 (1958)
  5. Tiselius A., Reflection from both sides of the counter, Annual review of biochemistry, vol. 37, 1-24 (1968)
  6. Hjertén S., Arne Tiselius, Journal of Chromatography, vol. 65, no. 2, 345-348 (1972)
  7. Hjertén S., Dedication to professor Arne Tiselius, Annals New York Academy of Sciences, vol. 209, 5-7 (1973)
  8. ジョゼフ・ニーダム, 生化学の歴史, みすず書房(1978)
  9. Hjertén S., (訳)高木俊夫, ウプサラにおける電気泳動の開発の歴史, 蛋白質核酸酵素, vol. 32, no. 13, 1546-1563 (1987)

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